「集中できない」その裏にある、言葉にならない心の揺れ

「集中しなきゃ」と繰り返してしまうとき
気づけば、心の中で何度も「集中、集中」と唱えている。
まるで呪文のように。

これは、生産性のためじゃない。
ぼんやりと心が溶けていくのを食い止めようとする、必死な防御だ。

ほんの少し気を抜くと、
心が静かに、穏やかに、どこかへ散ってしまいそうになる。

だから私は、「集中」とつぶやく。
自分を取り戻すための、小さな儀式のように。

心が冷えきっているときほど、深く潜れる
不思議なことに、心がおだやかなときよりも、
冷え切っているときの方が、ずっと深くまで降りていける気がする。

そこには苦痛も抵抗もない。
ただ静かに、深海のような真っ暗さが広がっている。

感情は、どこかへ消えていく。
何も感じず、何も語らず、ただ「見る」ことだけができる状態。

そんな時でも、私は言葉を綴っている。

逃げたくない、という思い
なぜ書くのかと問われても、答えは出ない。
でもひとつだけ確かなのは、「逃げたくない」という気持ち。

未熟さ、恐れ、過去の自分、
そして、何かを失うかもしれないという不安。

そのすべてから目を背けてしまえば、
きっと私は、自分にとって“不誠実”になってしまう。

だから、集中する。
心が冷えたままでも、言葉を織るために。

「穏やかさ」と「深海」の違い
心があたたかいときは、ふわふわと漂っているような感覚がある。
軽やかだけれど、地に足がついていない。

一方で、冷えきった心は、深く沈んでいく。
目も届かない場所。音もない。光もない。

けれど、そこには「在る」という感覚だけが、静かに残る。

哲学者エマニュエル・レヴィナスが語った“イリア(Il y a)”——
「何かがある」というよりも、「ただ“在る”ことそのもの」の存在感。
私はその“暗さ”に、なぜか安心すら覚えることがある。

理由なんて、わからなくていい
なぜ書くのかと問われたとき、私は「わからない」と答えるしかない。
けれど、それでも言葉にしようとしてしまう。

理由なんていらないのかもしれない。
ただ、そうせずにはいられないだけ。

書くことは、生きていることの証。
それは、氷の上に体温を残すようなものかもしれない。

すぐに溶けて消えるかもしれないけれど、
たしかに「ここにいた」と伝える何かを残す行為。

まとめ:集中できないとき、心は何を伝えようとしている?
「集中できない」時、それは怠惰ではなく、“心が溶けている”合図かもしれない

冷えた心の中にあるのは、恐れ、未熟さ、過去への誠実さ

そんな時でも、人はなぜか「書いてしまう」

書くことは、自分にとっての「誠実さ」のかたち

誰にも届かないかもしれない。
それでも、書くことで“私はここにいる”と、静かに告げている。

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