俺は忘れ物に気づいた。
けれど、取りに戻ることはできなかった。
あのとき、もし忘れ物を拾いに戻っていたら——
今を失っていた。
自分の場所も、築いてきた関係も、選び取った日々のすべても。
俺は天秤にかけた。
“あの頃の自分”と、“今ここにあるすべて”を。
そして、忘れ物を諦めることを選んだ。
そうするしかなかった。
そうしなければ、生きてこれなかった。
それが正しかったのかどうか、今でもわからない。
ただ確かに、あの時の俺は「選んだ」んだ。
そして、時間が経った。
たくさんのものを得て、たくさんのものを手放して、
ある日ふと、静かに気づいてしまった。
あれは、自分自身だったんだ。
俺が諦めたのは、夢じゃない。誰かでもない。
“俺自身”だった。
自分の感情、自分の輪郭、自分の声。
無理に押し殺して、正しさに従って、
うまくやってきたつもりだった。
だけど、取りこぼしたのは——俺だった。
だから、戻ってきた。
「取り戻すために」という言葉が正しいのかもわからない。
でも、確かに今、俺は帰ってきた。
なにを取り戻したいのか、まだうまく言葉にならない。
自由なのか、衝動なのか、過去なのか。
それとも、ただの“温度”なのかもしれない。
でも、はっきりしていることがひとつある。
二度と、失ってはいけない。
これだけは、全身でわかっている。
もう一度、置いていってしまったら、
今度こそ、立ち直れないかもしれない。
あのとき、忘れ物を拾いに行けなかったことは、
間違いじゃなかった。
必要な選択だったと、今も思っている。
けれど、今はもう違う。
今なら、抱えて歩いていけるかもしれない。
「俺自身」を、置いていかなくても、生きていけるかもしれない。
だから、俺は拾い上げる。
名前のつかないままの、“自分”という忘れ物を。
それがどんな形をしていたとしても、
どんなにおぼつかなくても。
そして、ただ願う。
二度と、失わないように。