泣くことは、こわくない。
けれど、泣いたそのあとに「もう立ち上がれないかもしれない」と思うことが、何よりこわい。
過去に一度、すべてを賭けて負けて、泣き崩れたとき——悔しさではなく、ただ空虚さだけが残った。
それ以降、「本気になること」「感情を手放すこと」に、私は少しだけ慎重になった。
これは、「もう一度だけ、本気になれるだろうか」と問いかけながら生きている人への、ささやかな祈りの記録です。
泣くことは、もうこわくない──でもその後がこわい
泣くこと自体は、悪いことじゃない。
むしろ、それができることは、生きている証なのだと思う。
だけど本当にこわいのは、その涙のあとに「もう立ち上がれない」と感じてしまうこと。
すべてを賭けて、燃え尽きた日
かつて、試合に負けた。
悔し涙ではなかった。
燃え尽きたあとの、言葉にできない空虚の中で、私はただ泣いた。
悔しさも残らなかった。
あったのは、「終わった」という感覚だけ。
その感覚が、何よりこわかった。
あの日から、同じ場所には戻れなかった
それ以降、私はその舞台に立つことをやめた。
情熱が再び灯ったのか、今でもわからない。
でも、自分のなかで確かに“何か”が終わったのを、私は知っていた。
また、本気になれるだろうか?
だから今でも、何かを始めるとき、
「また、あの日のように燃え尽きてしまうのではないか」
「また、立ち上がれなくなってしまうのではないか」
——そう思うと、こわくなる。
感情を手放したくないから、泣かない
私は今、泣くことそのものより、
“感情を手放してしまうこと”の方がこわいのだと思う。
だから、歯を食いしばって、涙をこらえる。
崩れるのがこわいのではなく、もう戻れなくなるのがこわいから。
それでも、あの涙は証だった
それほどまでに何かに本気になれたこと。
泣けるほどに何かを大切にしていたこと。
それはきっと、私の「強さ」だったのだ。
そして、もう一度だけ願ってみる
もし、もう一度、本気になれる日が来たなら——
もし、また涙を流してしまうような日が来たなら——
そのあとで、もう一度だけ立ち上がれるように。
私は、そう願っている。